瑠璃の魚形 2024正倉院展
行って来ました❣ 第76回正倉院展(10月26日~11月11日)。チケットはとったものの無事に正倉院展にゆけるかハラハラドキドキ、家族の一人が深刻な病気で手術を控えていたのです。お陰様で手術は無事成功してご当人も元気いっぱいになりました、有り難いことです。 近鉄奈良駅からこの登大路を歩くのも1年ぶり、さすが奈良⁉ 国立博物館までの道も公園も鹿、鹿、シカだらけ途中で、6月か7月に生まれたばかりのバンビちゃんが母に甘えて哺乳しているところをパチリ。
チケットは事前予約の日時指定ですが、行列を作って並んでいる人々を見たとき嫌な予感が‥‥それは杞憂で、15分でスムースに入れました。博物館に入場するとすぐに3枚の幡があり、その右側で音声ガイドをレンタルして装着します。正倉院には約9000点の宝物が保存されていて,今年の出展は57点。
2階の東新館に上がると、すぐ右手に新羅の琴(しらぎのこと)附 琴柱(つけたりことじ)があった。新羅琴は十二絃の楽器で羊耳型の緒止(絃をつないだ緒)で固定している。今回の新しい試みとして、新羅琴の裏面はこうなっておりますと公開され、後の伎楽面にもそれは適用されている。聖武天皇 (701⁻756)の時代は社会的不安が強く、地震.日食.長屋王の乱.天然痘の大流行まで! 何もかも天皇の徳がないからだと民衆は冷たい視線を浴びせます。 743年 聖武天皇は紫香楽宮で大仏造立の詔を発します。詔は出ても資金のめどは立たない…無いない尽くしの事業に強いお助け人、圧倒的民衆の支持を集めていた僧行基(668-749)登場、彼を総責任者に東大寺大仏建立はスタートしました。行基様この時83歳ですが、なぜ大仏が必要かを解りやすく民衆に説明し、微力でもと資金を集め、元論豪族からはドーンと寄付をいただきます。実行力抜群の彼は大仏完成の3年前にもう安心と他界します。 大仏は752年に完成。聖武天皇はその4年後に世を去られ、光明皇后が天皇遺愛の品々を大仏に献納されて、正倉院宝物が誕生した訳。
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡 (おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)=七宝細工の鏡長径18,5,短径17,3㎝ この鏡は世界にたった1枚しか残っていない貴重品 鏡胎を銀で鏡背を銀の七宝秞(ガラス)、唐時代に流行した想像上の植物 宝相華模様ですって。 緑地彩絵箱(みどりじさいえはこ)は、縦38,5㎝.横35,2㎝、高さは14,2㎝、御仏への捧げものを入れた箱と考えられています。
花氈(花模様のフェルトの敷物)は、232㎝×121㎝、紫地鳳形錦御軾(むらさきじおおとりにしきおんしょく=錦張りの肘置き)は長さ79cm.巾25cm.高さは20cm これに肘を置くとお疲れも癒される?
この4個の愛らしい瑠璃魚形(るりうおがた )=(ガラス) 順番に深碧瑠璃魚形.碧瑠璃魚形.浅緑瑠璃魚形.黄瑠璃魚形と命名され、お役人様達が紐を通して腰から下げ、おしゃれアクセとして楽しんだのでしょう。
紫檀金銀絵書几(したんきんぎんえのしょき)は、巻物を広げるための台、右のように経架として用いられたのではないかと想定されている。有難いお経を聞いた後は、お楽しみの伎楽が待っている。
伎楽面 酔胡王の表と裏面、胡人とは西域の異国人のこと、酔胡王と酔胡従が、酒宴の後で酔っぱらった格好を演じて大人から子供までを楽しませたのでしょう。
正倉院古文書正集から阿拝常麻呂解は、735年8月28日に平城京左京に住む常麻呂さん宅に泥棒が入り、役人の正装である朝服など12着が盗まれた。左京職はこの盗難届に申し送りの文言を書き添え、左京の公営市場を管轄する東市司に転送している。盗難品が市場で取引されるのを防ぐためですって。白っぽいのは左教職解です。摂津職解には、現在の大阪府北西部と兵庫県南東部の行政を管轄した摂津職印⁻公印が押されていた。1280年前の常麻呂さんの盗難届、左京職のお仕事ぶり、庶民の喜怒哀楽が生き生きと伝わってきます。
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