命は続く 小林美智子先生を悼む
春まだ浅い3月10日、私たち桶谷式の大恩人小林美智子先生が永眠された。ここ数年体調を崩されて療養中だったが、曽孫誕生を見届けての安らかな旅立ちだったと聞いた。美智子先生(親しみを込めてそう呼ばせていただく)と、桶谷そとみ先生とのご縁は深く永い。
(2004年(平成16年6月総会時のスナップ)
美智子先生は高岡市のお生まれで、桶谷治療院があった白銀町は近く、幼い時から「桶谷のおばちゃん」とは顔見知りだった。信大医学部在学中に学生結婚され、お子様5人を授かった。卒業後は小児科医となられたが、仕事と子育ての両立は大変なご苦労だったと察しられる。3番目のお子様が病弱で、看病に疲れ果て乳腺炎に罹患、夜遅く実家に帰り桶谷先生の乳房治療を受けて快癒された。「弱い子ほど母乳で育てなければ」と叱咤激励されたのは1970年(昭和45年)のことだった。のちに美智子先生ご自身が、研鑽会誌創刊号1980年10月発行と会誌2号81年3月発行 に詳述されている。
1977年(昭和52年)、桶谷式が一大ブームとなり始めた頃の桶谷先生と美智子先生 研鑽会誌創刊号と2号 桶谷先生は、多忙な診察業務の後に一人一人のカルテをご夫君庄蔵氏とともに検討して、母子一体性の原理を見出し、挿絵入り論文を何本も書き上げておられた。段ボール何箱ものカルテや論文を見せられた美智子先生は、鋭い感性の持ち主として、実際に乳房治療を受けた小児科医として、『全国どこでもこのような母乳治療が受けられるように、助産師たちを鍛えなければ ‼』 と熱い思いを語る桶谷先生に共感し、長ーい旅が始まったのです。私は昭和51年10月から高岡通いを始めて住み込み研修も受け、「47都道府県に一人ずつきちんと手技ができる助産師を育てたい!」という桶谷先生のお言葉を耳にタコができる位聞いています。全国各地から講義と技術教習を懇願され、大会場で何百人もの助産師に研修させながら、漠然たる不安をお二人は感じていたのでしょう。桶谷を残すために、のちに小人数制、みっちり研修制度に代わるのです。
1980年(昭和55年)4月 満開の桜のころに桶谷式研鑽会発会、水色の和服桶谷先生の左が美智子先生。
カンパーイは1983年7月、アメリカのカンザスシティで開かれた国際母乳連盟会議に招待されて桶谷先生が無事講演とデモンストレーションを披露。お歴々と共に若輩の私もお供しています。桶谷は前途洋々の船だと誰もが信じていたころです。 あれから幾星霜…研修センターの学校長も引き受けられた美智子先生は、毎年六月初めに開かれる総会で、良く通る美しい声で、来賓あいさつをされた。 私たちはただ頭を垂れておのが無知、怠惰を恥じるばかり。亡くなられる3か月ほど前に先生の論文集も完成しましたね。生涯努力と研究心を持ち続けられた美智子先生。先生の5人のお子様から曽孫さんまで、命は続きます。美智子先生有難うございました。安らかに眠ってください。
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