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2022年4月

兵馬俑と古代中国展

  2月24日にロシアからの侵略が始まり、今なお、出口の見えない泥沼のウクライナを夜のニュースで見る。本当にマリウポリは陥落寸前なのか、この侵略を止めるべきはロシアのプーチン大統領だが、彼はブレーキの利かない戦車に乗ってしまった…安全な日本にいる私にできることは、ウクライナから目をそらさず関心を持ち続け、心ばかりでも確かな所に寄付を届けるだけ。

Photo_20220420233601Photo_20220427073201    Photo_20220420233602京セラ美術館で開催中の兵馬俑と古代中国を観てきた。ヒトや動物の姿を写し取った像を俑と言い,故人の死後の生活のため地下世界に収められた1974年に西安市で発掘された秦の始皇帝(BCE259-210)の兵馬俑8000体が有名。図録の表紙を飾る跪射武士俑(キシャブシヨウ⁾は高さ122㎝ 、弩(ド=イシユミ)集団の一員の彼は、右膝を地面につけ左膝を立て弩を構えて待機している。 モノクロ写真は、発掘時のまま始皇帝陵の土中にある兵馬俑。等身大の前面の武士団が、向かって左に揃えている髷にも注目!。

Photo_20220415133603Photo_20220418130501Photo_20220418134302Photo_20220418134301時代からは、イラストのような立射武士俑178㎝や、アクセと見まがう愛らしい金虎 高さ3.1㎝【もしかして虎符】も出土している。

20220410_102340_20220418132901 Photo_20220418132501   Photo_20220418132603展示最後の室は撮影OKなので、イヤホンガイドつけたまま、スマホを迫力満点の舞台に向け夢中で撮影中。着物は灰水色大島、葉桜の名古屋帯という装い。

 Photo_20220418180601 Photo_20220418180501Photo_20220419184301彩色騎馬俑は高さ33cm、長さ34cm 秦時代から見るとまるでミニチュア、皇帝陵ではなく劉邦に従った臣下陵のもの?  右の彩色歩兵俑高さ48cm,顔貌が北方系らしい。のちに激しく争うことになる匈奴とも前漢時代は仲良く交流していたのか?   BCE202年、漢の劉邦が垓下の戦い(ガイカノタタカイ⁾で楚の項羽を破って漢皇帝の座に登ったのは46歳の時,劉邦が建国した前漢は約200年続いた。 鼎の軽重を問うの鼎がこれ、父癸青銅鼎(フキセイドウテイ)、BCE771 年に滅亡した西周の陵から出土した。高さ30.5cm,口径26.5cm、戦にも携帯して魚肉を調理したのでしょうか。

Takenoko-1  Photo_20220419184401  今年も長岡京のF様から見事なタケノコ様がご到着。普段は眠っている直径35cmの巨大土鍋と寸胴で水から1時間、ゆっくり茹でて一晩そのまま冷まします。筍ご飯と焼筍の田楽味噌で賞味! 変異を続ける新型コロナウイルスも宿主を殺してしまえば元も子もなくなる…そう利己的ではないはずだから、どこかで人類と折り合いをつけて収まることを信じて…ゴールデンウイークは京見物で静かに過ごす予定です。

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命は続く 小林美智子先生を悼む

春まだ浅い3月10日、私たち桶谷式の大恩人小林美智子先生が永眠された。ここ数年体調を崩されて療養中だったが、曽孫誕生を見届けての安らかな旅立ちだったと聞いた。美智子先生(親しみを込めてそう呼ばせていただく)と、桶谷そとみ先生とのご縁は深く永い。 

3_2022032915020116(2004年(平成16年6月総会時のスナップ)
美智子先生は高岡市のお生まれで、桶谷治療院があった白銀町は近く、幼い時から「桶谷のおばちゃん」とは顔見知りだった。信大医学部在学中に学生結婚され、お子様5人を授かった。卒業後は小児科医となられたが、仕事と子育ての両立は大変なご苦労だったと察しられる。3番目のお子様が病弱で、看病に疲れ果て乳腺炎に罹患、夜遅く実家に帰り桶谷先生の乳房治療を受けて快癒された。「弱い子ほど母乳で育てなければ」と叱咤激励されたのは1970年(昭和45年)のことだった。のちに美智子先生ご自身が、研鑽会誌創刊号1980年10月発行と会誌2号81年3月発行 に詳述されている。

News20220329_1523211977年(昭和52年)、桶谷式が一大ブームとなり始めた頃の桶谷先生と美智子先生 研鑽会誌創刊号と2号   桶谷先生は、多忙な診察業務の後に一人一人のカルテをご夫君庄蔵氏とともに検討して、母子一体性の原理を見出し、挿絵入り論文を何本も書き上げておられた。段ボール何箱ものカルテや論文を見せられた美智子先生は、鋭い感性の持ち主として、実際に乳房治療を受けた小児科医として、全国どこでもこのような母乳治療が受けられるように、助産師たちを鍛えなければ ‼』 と熱い思いを語る桶谷先生に共感し、長ーい旅が始まったのです。私は昭和51年10月から高岡通いを始めて住み込み研修も受け、「47都道府県に一人ずつきちんと手技ができる助産師を育てたい!」という桶谷先生のお言葉を耳にタコができる位聞いています。全国各地から講義と技術教習を懇願され、大会場で何百人もの助産師に研修させながら、漠然たる不安をお二人は感じていたのでしょう。桶谷を残すために、のちに小人数制、みっちり研修制度に代わるのです。

 Photo_20220401155501  Photo_20220401155502 1980年(昭和55年)4月 満開の桜のころに桶谷式研鑽会発会、水色の和服桶谷先生の左が美智子先生。

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カンパーイは1983年7月、アメリカのカンザスシティで開かれた国際母乳連盟会議に招待されて桶谷先生が無事講演とデモンストレーションを披露。お歴々と共に若輩の私もお供しています。桶谷は前途洋々の船だと誰もが信じていたころです。                  あれから幾星霜…研修センターの学校長も引き受けられた美智子先生は、毎年六月初めに開かれる総会で、良く通る美しい声で、来賓あいさつをされた。 私たちはただ頭を垂れておのが無知、怠惰を恥じるばかり。亡くなられる3か月ほど前に先生の論文集も完成しましたね。生涯努力と研究心を持ち続けられた美智子先生。先生の5人のお子様から曽孫さんまで、命は続きます。美智子先生有難うございました。安らかに眠ってください。

                                      


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