若葉雨 武田一子先生を偲ぶ
若葉雨 なにかやさしく ものをいふ 西島麦雨(1895ー1981) 若葉雨の今日5月5日はこどもの日、5年前のこの日 原稿を書きながら亡くなられた武田一子先生のお命日でもある。
GWも今日で最後、珍しくやる気を出して早朝から自室の本棚を整理、一晩で読める文庫や雑誌はためらわず捨てる箱に放り込めるが、愛着のあるディック.フランシスの競馬シリーズや須賀敦子のイタリア物、池田晶子のソクラテスはどうしても捨てられない。写真アルバムもスキャナーで読み込んで捨てれば…とアドバイスをいただいてやっと2000年までを終えたが写真は残している。
赤いジャケットとひざ丈スカートの武田先生、1992年12月3日、嵐山嵯峨野巡りを楽しんだ時のスナップ。嵐山には名残りの紅葉が残っていて「温暖化のおかげかね」と顔をほころばせられた。豪華ジャケットにパンツスタイルが先生の定番だったが、スカートもお似合い。落柿舎近くの神社でおみくじを引き神妙なご様子。
武田先生は助産師学校が京都で私の大先輩、学生時代の講師でもある。京都がお好きで摘草料理の大原美山荘や八坂神社近くの未在のような高級料亭だけでなく、四条大宮近くの定食屋も愛しておられた。本棚バックに身を乗り出して真剣な表情で聞いておられるのは、「ダイオキシンの話」、ダイオキシンと母乳が大問題になって、1986年6月22日 私の助産院で摂南大学宮田先生をお招きして講義を受けたときの1枚。仕出し屋からの弁当を残さず頂いた後、庶民の定食屋もという健啖ぶりであった。
1999年7月 桶谷創立から苦楽を共にしたメンバーズ5人で北海道を旅した。創立からのメンバーはもっと多数だが、体調がよくなかったり桶谷先生の勘気に触れて連絡も取れない数人もいた。北海道は初めてではないが、会議会議で時間に余裕がなく、空港とリムジンバス、ホテル会議場の記憶しかなく「来た、見た、帰った」と自嘲気味につぶやくしかなかった。今回の旅は仕事全くなし、函館から入って函館山、小樽の石原裕次郎記念館、、小樽運河、トラピスチヌ修道院とゆっくり巡って心に残る旅となった。
これは鳥取.島根の旅ですね、チューリップ畑や小泉八雲邸の時のジャケットですね。時々このコロナ禍、武田先生ならどんな決断をされただろうと考える。先生の70代以降は桶谷で多忙を極め、持病で検査入院される時もあったが、病気や不調は徹底して口に出さなかった。フラっと京都に来られ、新阪急の鉄板焼きロインで200gステーキを楽しみ、愛煙家で食事中もスパスパ煙草を吹かす姿は堂に入っていたが、アルコール類は梅酒と赤玉ポートワインをなめる程度、あたりを威圧するオーラの持ち主がアルコールを勧められると困惑しながら「飲めないんですよ…」とお断りになる姿は可愛らしい雰囲気であった。
5月10日過ぎれば、昨年新型コロナで亡くなったTさんご夫妻のお命日が来る。上京するたびに、銀座空也の最中を買っておいてね、武田先生を偲ぶ会場に連れて行ってねとアッシーさせた年下の友人ご夫妻であった。悲報を聞いたのは半年後、唖然茫然…謹んでご冥福を祈るのみ… やっと私どもも、6月末には2回の新型コロナワクチン接種が終わると予定が立った。コロナワクチンには賛否両論あり、副作用も突然死も百も承知、他人に強制はできないが、医療従事者である私はマスク手洗い、換気以外に自分にできる事として接種したい。
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