追悼KANAさま
逝ってしまった…本当に…姪のKANAは不帰の客となってしまった。
KANAちゃん有難う、きっとどこかに生まれ変わってくるよね、告別式で家族は法華経の輪廻転生に従って、KANAが生まれ変わってくるよう願って呼びかけた。宮沢賢治の「永訣の朝」には妹トシ子の死が悲痛な中にも美しく語られている。結核のためわずか24歳で命を閉じたトシ子は、今度生まれてくるときは、こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてくる、と遺す。
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ で始まるこの詩は、トシ子の死後半年たって書かれている。
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
この2年半脳腫瘍で3回も開頭術を受け、放射線の副作用にも抗がん剤にも耐えて、再び看護師として復帰することを願っていたKANAであった。頭痛、嘔吐、嘔気お定まりの症状が改善されることはなく,口からの食事がとれないため、1年余りは腸瘻で栄養を取っていた。播種性の脳腫瘍で治療が難しいと宣告されたのは、3回目の術後であった。友人たちによると本人は、自分のことよりも残される家族を心配していたというから、早くから覚悟はできていたのか…
徐々に身体機能を失って寝たきりとなり、思考も判断力も衰えて行ったがKANAの存在そのものが家族の希望であり、光であった。今年の春の桜を見せようと持って行った時に、桜に視線がゆかず、「暗い暗い」と視力を失っていたことを知って愕然とした。最後の2か月余り、家の近くのホスピスに入り、穏やかでゆったりとした時間が持てたことが家族にも私たちにも救いといえようか この2か月は、微かな声で「ハイ」 と返事をするのがやっとという状態だったが、誠にホスピスのスタッフの皆様には感謝あるばかり、行き届いた手厚い看護であった。週単位、日単位でなく、KANAの命は時間単位になったといわれ、最後の2日間見舞った時も、心拍120、呼吸は荒く乱れていたが苦悶の表情はなかった。駆け抜けたKANAの生涯、仕事一筋かと思いきや、線香花火からどーんと大きな打ち上げ花火まで数々のロマンスがあったんだってね。葬儀も初七日も生者のためと虚しかったけれど、400人もの参列者に見送られたあなたの人柄がしのばれ、友人知人から私たちの知らないKANAのエピソードを聞いて驚き桃の木ですよ。「あるだけの菊投げ入れよ 棺の中」 漱石 KANAちゃん安らかに眠ってね。
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