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2009年4月

心身ダイエット

ここ2か月、体重増加が止まらない !ダイエットの基本は1か月1kg減だというのに、私はその反対、1か月1kgペースで増加している。困った、困った…2年前、あるグループでストレッチの利いたお揃いのユニクロTシャツを着ることになり、何の疑いもなくMサイズを取って試着した。3段腹ならぬ肉団子をぎゅうぎゅう押し込んだ自分の体型をカガミで見てガマの油状態となる。 解説:江戸時代の大道芸人にガマの油売りがあり、火傷など万病の薬としてガマの油を売った。その口上が面白く、ガマの油の採取は、ガマを捕まえてカガミを見せるのだというわけ。ガマはカガミに映った己が姿の醜さに体中から油をたらりたらりとしぼりだすと述べた。これではならじと一念発起してダイエットを決意。詳細は省きますが、艱難辛苦の結果なんと5kgのダイエットに成功し、そのまま2年経過して鼻高々だったのに…これ以上太ったら7号サイズが合わなくなるし、洋服を新調すれば、経済効果は上がるでしょうが我が家の家計が悲鳴を上げる。何より仕事に差し支える。本当に困った。「朝晩同じ服装で体重計に乗るのが基本よ。快適マタニティライフ→ 満足出産→満足育児と続く道ですよ。食欲との戦い?産後しばらくは、天使のあなたの赤ちゃんでも夜中に泣いて起きることがしばしば、真夜中におっぱいあげたり抱っこしてあやしたり、睡眠との戦いも加わりますよ。」 なーんてしたり顔で妊婦の皆さまを諭していたこのワタシがである。ダイエットの敗因?と考えられるのは3つある。、第1は朝夕2回の体重測定のおさぼりである。世の中には、測るだけダイエット法すらある。「体重を測るだけで痩せるなんて、体重計が脂肪をとってくれるのか」という負け惜しみも聞くが、当然のこと、体重計は脂肪燃焼はしてくれない。なんとなく体重計に乗りたくない、体重を測りたくない状態がいけないのです。0敗因その2は、ポッコリお腹が解消した結果、ウエストシェイプをしなくなり、お出かけは優雅なワンピースや大好きな和服ライフ一辺倒になったこと。敗因その3はストレスを食欲で解消という危険な毎日が続いたこと、当然と言えば当然か… 

思えば2年前は、仕事帰りに二条城を2周するなどして歩きに歩き、タクシーを極力使わず、ストレス発散は「心の栄養?」だったのに。写真は心の栄養のひとつ、仕事場近くの住宅の軒下の牡丹。丹精こめた花を毎年楽しみに観賞させていただいている。見上げれば四条通りの,プラタナスも、秋には枝も葉も落とされて裸に近い状態になっていたが、4月初めには愛らしい小さな若葉を付けている。仕事場が便利な四条大宮なので四条通を1すじ下がれば綾小路、Photo_11

Isamu 2筋下がれば仏光寺通、この写真のようにお寺さんが多い。幕末には、この綾小路通を土方歳三や近藤勇など新撰組の隊士たちが逃げる勤皇のl志士を追いかけて「待てーっ」「待ってたまるか」とか叫びながら駆け抜けたのでしょう。2年前の体型に戻ってしまわないうちに、真面目にダイエットしますと誓った舌の根も乾かないうちに、4月はいくつも甘い誘惑の罠を用意して待っていたのである。Photo_15

Photo_16 まだ行ったことのない憧れの「高台寺土井」そこに「できれば御着物でいらしてください」とお誘いをいただいて断れる人間がいますか?ダイエットの敗因の一つが着物と書いたことなどすっかり忘れ、当日は「春霞」の銘の訪問着仕立ての牛首紬に桜染めのしゃれ袋帯、帯締めは帯と同系色を取って道明の高麗組と決めます。老舗のお昼は、しっかりしたお味で、アワビもカラスミも酢の物どれもどれも結構、デザートまで残さずしっかり頂き、眼下の八坂の塔(法観寺)を見て大満足。3日後には夕食で、ウエスティン都の中華料理「四川」へ。料理良しサービス良しでまたも大満足。心地よい疲労感も手伝って、滅多にしないタヌキ調フルメイクを落とすや否や、ベッドに直行、朝までぐっすり、今朝は体重計に乗りたくないという毎日。さらに甘い誘惑は続く。1昨日は長岡から好物の朝掘り筍がどっさり届き、京の筍はたった30分茹でれば、これこの通り美味しおすェとなる。素人の家庭料理ゆえ、出汁だけは気を使って用意し、大振りの煮物にワカメと木の芽をたっぷり摘んで合わせる。姫皮のお吸い物、木の芽あえ、軽く焼いたもの、筍ごはんで〆て大盤振る舞いとなった次第。この後も料亭の懐石予定も入っていて誘惑は当分続く。危うし私のダイエットといったところ。

  

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高岡慕情

定刻に京都を発ったサンダーバード27号は、目的地高岡に18時前に到着した。恩師桶谷先生の墓参が目的の旅だから、雪が多くても困るが、全く雪のない北陸路というのも味気ない。JR高岡駅はただいま線路部分を工事中。高岡市は人口18万人、写真で見ると、ロータリーのある平凡なPhoto_2地方駅だが、古くからの歴史に彩られた由緒ある街といえる。古くは万葉集の編者大伴家持(718年~785年)が越中の国守として赴任したことで知られ、今から400年前に加賀100万石の2代目前田利家侯が高岡城を築いて移住した事から城下町として栄えた。私が桶谷先生に師事した1975年ころになっても町名表示に城下町の名残があって、先生は「今は白金町いうだが、ここは昔の大工町だがや… 鉄砲町は行き過ぎよ、なァお父さん(と御夫君庄蔵氏に相槌を求め )」北陸独特の口ごもるような柔らかい響きの口調で住所を教えておられた。  また、高岡の人々は、1900年(明治33年)の高岡大火で街の誇り高岡大仏が焼失したことにショックを受け、以後は火災を避けるため内風呂に頼らず,銭湯に行く習慣になったとか。駅に立ったとたん、懐かしがこみあげてきて、私は、25年以上前の記憶を頼りにあるはずもないかっての桶谷治療院を探して歩き出した。暗くなった高岡の街を30分以上歩きまわっても目指す治療院跡を探し出せず、ついに断念してホテルに入る。翌日の早朝、前もって約束してあった菩提寺の蓮光寺を訪ねた。初対面の住職ご夫妻は、この日が珍しく晴れて暖かいことをPhoto_3高岡独特の柔らかい口調で話され、快くかく迎え入れて下さった。お墓に案内していただいた上にお経まであげて下さったのである。「生まれ育った高岡に眠りたい…」は桶谷先生のご遺言だったとか。先生ご夫妻のお墓は、2本のケヤキの大木とその下に咲く藪椿近くにあって、優しく枝を伸ばしたケヤキに守られていた。しかも一族が眠るお墓が集まっているから、賑やかなことがお好きだった先生は、すっかり柔和なお顔になられて昔話に興じておられるような気さえした。私の属する団体の苦境を訴える気などすっかり失せて、浮かんでくるのは楽しくはつらつと患者様に接していた壮年の高岡での先生の面影であり、私の修行時代であるが、今はそれさえも懐かしい。Photo_4 Photo_5 同行したHさんと二人、ラベンダーのお線香を上げて「ああだったね, こうだったね、」と言いながら下手な経を読み、時間のたつのも忘れていたら、お寺の奥様が遅いのを心配して探しに来て下さった。ここ蓮光寺は、数年前から大改修をなさっていたが、それもほとんど終わり、来年は落慶法要というところまでこぎつけられた。特別に拝観させていただいた本堂内部は、美術品の美しさと威風を漂せて見事な調和であった。これはもう、奇遇としか言いようがないが、奥さまは26、7年前に桶谷先生の治療を受けられた方であった。口の重いこの地方の方が、桶谷先生との出会いを昨日のことのように、語尾を口ごもる独特の口調で、とつとつと話して下さり、私があれほど歩いても探せなかった治療院跡に愛車で送ってくださったのである! 「それはもう忘れられませんよ。今でも助けてもろうたと思ています。ただただ、そこに行って先生の治療を受けたら、とそれでもう楽になるんですから。先生が大阪に行かれた時は、私らは見捨てられたような気になりましたよ。私らの子供が母乳で困ったらどうしようと…そうゃからこの寺に先生が来なさったことはありがたい思うてます。」 私のような行きずりの人間にここまで親切にして下さるのは、土地柄もあるだろうが桶谷先生が取り持つ縁としか言いようがない。Photo_8                    

 

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先生の旧居の隣にあった高畠山浄土寺と観音様である。1977年、先生宅に住み込み修行をした6週間は、今思えば珠玉だが当時の私には地獄に思えた。先生に叱られゆき詰まると、私は泣く子のお守役を買って出て、観音様の前でひそかに涙し、気持を沈めて修行に戻った。電柱と郵便ポスト、この道の奥に先生宅はあリ、秋の夜は謡が聞こえるのどかな白金町であった。高岡墓参は、宿題を果たした子供の気持ちにさせてくれ、同時に師から叱咤激励と勇気をもらったよう。「何が大事かよーく考えて、迷ったら初心に返れや。患者さんが教えてくれるがや。」患者さんのためにと元旦しか休まず、ご主人と二人、孤軍奮闘して桶谷式を創生された先生である。弟子の私が泣き言を言っている場合ではない。もう迷わない、そう決めて京に戻る途中の湖西には、虹がたっていた。

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