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2009年1月

朝青龍賛

  大相撲初場所も残すところあと2日、優勝争いは横綱の朝青龍と白鵬の2人にしぼられ、国技館内は日に日に熱気を帯びてゆく。思えば先場所、九州場所の館内はガランとして寂しかった。土俵の内外で話題を提供してくれる強い横綱、朝青龍様のお姿がなかったのであるそれがうって変って今場所のこのにぎわい引退さえ取りざたされた場所前の予想を見事に裏切って、日に日に横綱らしい相撲を堪能させてくれる朝青龍様の活躍あってこそである。 Photo_3  ご存じ68代横綱土俵入り、この赤いのは庚申堂のくくり猿、制限時間いっぱい、闘志満々で振り向いた横綱のお顔とジェスチャーが、くくり猿そっくりとひそかに思っているPhoto_4                                                                              実家の両親が揃って相撲好きだった影響を受けて、今も時々相撲を見る。子供時代の記憶は、旧式のブラウン管というのか白黒テレビの前にどっかりと座って朝潮や栃錦、若ノ花などに声援を送る祖父の姿である。 母が幼い時、昔話のように聞かされた話では、母方の曽々祖父 F史郎様は、一時相撲取りになりたいと真剣に願われたとか。 F史郎様は16歳で御一新(1868年の明治維新)にあわれた。士族の四男で、体格だけがよく無頼の徒と呼ばれるに等しい乱暴者だったとか…天地がひっくり返るような御一新で、窮乏生活に突入、三度の食事にも事欠くのに、F史郎様の母上は、思いがけない大金が入ると米を買わず、上等のお茶を求めるお人柄だったとか。腹いっぱいご飯が頂ける身分になりたいとの相撲取り志願であった。 大分県の日田に親類があり、そこを頼って相談に行ったのは、「相撲の神様」と呼ばれた日田永季さんをまつった慈眼山永興寺にお参りするためでもあった。 しかし、親類の年寄夫婦から、日田殿(ヒダドン) と親しみをこめて呼ばれる永季さんの昔話を聞かされ、とても無理だと諦めたという。 「日田どんはなー身の丈6尺余り(2メートル以上)の大男でな、力の強い、気のやさしいオノコじゃったそうな。日田どんが 16の時、後三条天皇さんが京都で相撲の節会(スマイのセチエは1071年)を催されてなー、日田から召しだされて京に上る途中の川で、溺れとった童女を助けたそうな。その童女が「あなたは日田永季さんでしょう。都の相撲の節会に臨まれるなら 強敵の出雲の小冠者(イズモのコカンジャ)を倒さねば勝つこと叶いません。全身砂鉄を帯びた小冠者の弱点は唯1か所。額の真中の一寸ばかりが普通の肉です。ここを押すのです」と。 永季さんは言われたとおりにして出雲の小冠者を倒し見事優勝、その後15回も相撲の節会で優勝して相撲の神様になったげナ。ここで親類の年寄り夫婦の喧嘩が始まる。お爺さんは「出雲の小冠者が母の胎内にある時、母が『どうぞ、強い強い子をお授けください』と神仏に念じてお告げを頂いたそうな。 お告げで、毎日砂鉄を食するというたに夏の暑さでどうしても砂鉄が喉を通らんでの、1日だけ甘い瓜の誘惑に負けてしもうたんじゃ。そんで生れてきた出雲の小冠者は、身の丈こそ日田どんの半分じゃったげんど 全身砂鉄に覆われたみたいに真っ黒での、額の1寸だけが母者が1日瓜を食したために弱かったんじゃ…」と話し、おばあさんが「違う違う」と言い出す。「砂鉄みたいなそんなもん、身籠った女は食せません。 毎日生の小豆を食したんやけんど、1んち忙しいて忘れただけ。」 喧嘩はなかなかやまず、お爺さんは「出雲は出雲タタラ言うてな、鉄の産地や、砂鉄こそあれ小豆など無いわ」と切って捨て、おばあさんは「ウリができるのに小豆もできますやろ」と譲らなかったとか… F史郎様は深くご自分を恥じ、年こそ日田どんと同じ16歳なれど無頼に近いご自分の生き方では相撲取りは無理と諦めて、船会社に所属したと母は聞かされたとか。それに、F史郎様の母上は砂鉄や小豆どころか米もロクに頂けなかったのですから、額の1か所くらいではなく、ご自分の体は弱点だらけだろうと。Photo_11 慈眼山永興寺 には、日田どんの永季さんが寄進した兜跋毘沙門天(トバツビシャモンテン)があり、坐した女人の両手で支えられているとか。トバツ国は西域のトルファン。毘沙門天は多聞天とも呼ばれ、戦の神様とされ、古くは川中島の戦いで知られる上杉謙信が深く帰依したことで有名。土俵の戦いに臨む力士として日田殿も信仰したのであろう現在も神聖な土俵だからと女人は上がれない鉄則だが、なに、そんなこと大したことではありませんね。毘沙門天を支えている女人のようにこの世を支えているのは女性ですよ。さて、今夜は雪模様、特等席のテレビ桟敷で青龍様にエールを送りましょう。頑張れ、横綱朝青龍!!朝青龍様はよくよく見れば赤ちゃん顔ですね。両頬 がぷっくり盛り上がって母乳育ちの賢い赤ちゃんの典型のよう。ここでうちの可愛い5人の朝青龍ちゃんたちをご紹介。Photo_8 眠り龍ならぬ眠るAKIRAちゃんは3か月続いてお嬢様と見まがう 兄SOMAくんは3歳Soma_2  髪がまばら美少女予備軍2人は、上がSOMAくんのYurikaYunaPhoto_7

YURIKAちゃん2か月 下の右YUNAちゃん5か月。最後の黄色いスタイRYUちゃんは2か月今回は2世(チチかハハがここの卒業生)および兄妹シリーズです。どうです、母乳育ちのこの子たちのの愛らしさは!ただの身びいきなのでしょうか

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雪のお墓

  「今はお墓参りは無理ですよ。雪が30センチ以上積もっておりまして、とても墓には近づけません。まあ雪が無くなる春まで待ってから来られたら…」  越中富山の高岡には、わが恩師桶谷そとみ先生とご主人の庄蔵様のお墓がある。   桶谷式の母乳careを確立された先生は、大阪府の泉南を終焉の地とされ、2004年1月6日にこの世を去った。泉南にあったお墓が最近、先生ご夫妻が生まれ育った高岡に移されたのである。それを知り,矢も楯もたまらず、墓参りを思い立ったが冒頭のご住職様のお返事であった。 今、私の属する団体は大きな岐路に立っていて、私1人の胸に余るあれこれを、桶谷先生に聞いていただきたい。先生どうすればよろしいのでしょうと伺ってみたい。京都の大学病院勤めをしていた1976年(昭和51年)から、私は高岡の桶谷先生のもとに通い、母乳に対する先生の薫陶を受けて育った。   高岡の雪には何度も巡り合い、雪国仕様の長靴でも滑ったり転んだりしながら通い、先生に叱られながら学んだことが基本となって、ここにこうして仕事をさせていただいている。今になって思うのは、技術を学ぶ難しさ、当時の先生は60代入ったばかり、気力体力とも充実されていて、毎日カラカラと朗らかに母子を見ておられ、「えーッ、この方の所見は全くわかりませんー」と泣きそうな私に、[アタマで覚えようとしてもダメだがや。患者さんに聞きんさい」と檄を飛ばされ、実習中は実に厳しいご指導であった。亀のごとき歩みの不肖の弟子を教えることはさぞ、歯がゆい思いであられたでしょう。

「今回もダメだった、お叱りを受けてばかり 下手な私…」と意気消沈して京都に戻る時には、先生が表玄関まで見送って下さり、ふっくらと暖かな手で私を包み込み「いっぺんに覚えよ思うてもムリだがや。また来られい」と優しく励まして下さるのが常だった。実習中の厳しいお顔が一変してお隣の慈母観音の表情になられるのも魅力で、飽きずに高岡通いを続けたのである。

高岡の先生のお墓は雪に覆われて近づくこともかなわない。墓石に布団は着せられぬ、というがお布団でも掛けて差し上げたい。

たまに紐解く万葉集にも穂積の皇子 (ホヅミのミコ )こんな歌がある。

降る雪はあわにな降りそ吉隠(ヨナハリの猪飼の岡(イカイノオカ)の寒くあらまくに

ヨナハリは 奈良県桜井市にある。 かって穂積は、宮廷の高官高市皇子の妃だった異母妹の但馬の皇女と禁断の恋に陥ったが、但馬は若くして世を去ってしまい、ここ吉隠にお墓があった。   穂積は、激しい雪の日に 恋を不完全燃焼で終わらせて逝ってしまった但馬のことを思い出してたまらなくなる。遙か 猪飼の岡を望んで涙を流しながらこの歌を詠んだと書いてある。「降る雪よ、そんなにドサドサ積もらないでおくれ。吉隠の猪飼の岡の下に眠るあの人が寒くて凍えてしまうから…」    こんな悲痛な歌を詠みながら、穂積皇子は順調に出世して長生きし、美貌の才媛、恋多き女として知られた大伴坂上郎女(オオトモノサカノウエノイラツメ)を妻とする。  晩年の彼が宴会でしたたか酔っ払って詠んだ歌。男というものは…と墓の下の誰かは、あきれながらもしく許してあげるでしょうね。

家にある櫃に鍵さしおさめてし恋の奴がつかみかかりて

泣き笑いの顔で、純粋だった若い日の但馬との恋をしのんだか、「恋はするものではなくておちるもの」だと実感を込めて歌ったか

桶谷先生、不肖の弟子が高岡に行ける春まで待って下さいませ。

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松の内に

     2009年、明けましておめでとうございます。

    20数年前に赤ちゃんだった懐かしいご家族や、昨年生まれの新しいお顔を含めて、たくさんのお年賀状をいただいております。この場を借りて厚くお礼申し上げます。 ありがとうございました。Photo_2

                中でも18年前に通っていたKMくんが府立医大の学生になっていたり、23年前のあのお子様がもうすぐママになりますとのお知らせ、助産師冥利に尽きます。 Photo_3

上は某ホテルのお正月の玄関。右は親類の大学生に振袖を着つけたところです。今年は年末年始に1人も救急の方を診なかったのですが、毎日留守電を解約し、ハラハラドキドキ、こんなことなら「大晦日まで毎日診察致します」にしたら良かったのでしょうか

とりあえず、正月のお祝いを某ホテルに集合して親類一同の大宴会となった次第。老年の私としては「カラダが楽だからと言って正月が楽しいわけではない」ことを身をもって知りました。例年、大みそかまで仕事に追われ、見える所だけキレイにして、不人気でもおせち作りに追われ、立ち働いてのお正月でした。来るほうは恵比寿顔で三々五々集まってきますから、当方は、初詣もそこそこに深夜まで酔っ払いの相手、お子様の相手、年寄りの相手と本当に忙しい正月なのです。ああ寝正月ができる人や海外脱出組がシミジミ羨ましいと思った昔でした。

今年は、黒豆と田作り、なますと数の子だけ作り、ホテルで御馳走を頂くという贅沢、主婦としては「満足満足」なはずなのになぜか物足りない。

Photo_4 2009年、これが春着です。銀ねず色の竹を散らしたつけ下げ、帯は草木染め、帯締めは厳島組の平、帯揚げは若緑です。老年の主婦がこんなの着ておさぼりしていては、ハア、いけませんね。Photo_5

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ホテルのお雑煮と料理の一部。美味と眼でも楽しみました。やはり極楽!

これは内緒ですが、何もかもおいしいホテル料理ですが、一つだけ私の勝利!があります。その年の丹波産で作る祖母譲りの柔らかい黒豆です。

えッさび釘?そんなの入れませんよ。漬物用の鉄卵を入れて、前の日から用意して延々10時間、自然消火するガスと戦いながら手をかけてゆっくり煮ます。松の内(本当は1月15日の小正月まで)中は絶対痛みません。

ご希望があれば今度伝授いたしましょう。

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